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        <title>天地人の関ヶ原の裏話</title>
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        <description>今年2009年のNHK大河ドラマ『天地人』をより深く知りたい人の為に、日本史ヲタである私のレポートです</description>
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        <copyright>Copyright 2009</copyright>
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            <title>《関が原》　宰相殿の空弁当</title>
            <description><![CDATA[<p>石田三成の出陣を促す狼煙はしつこく上がっています。南宮山の毛利秀元の元には、狼煙以外にも、三成からの出陣要請の使者も訪れましたが、吉川広家からの指示で何だかんだと理由をつけて出陣しようとしませんでした。</p><p></p><p>また、関が原に攻め込むのに、毛利軍が邪魔になる土佐の領主・長宗我部盛親からも使者が来て、</p><p></p><p>「宰相殿（秀元の呼称）が動かないと、攻め込めないので、サッサと動いて欲しい　(-_- )ｂ」</p><p></p><p>と散々要請が来ており、返答に窮した秀元は、</p><p></p><p>「わが毛利軍は、只今弁当を使っている　(￣^￣;)」</p><p></p><p>と答えたのです。弁当を食ってると言った以上、秀元は本当に部下に陣中食を摂る命令を出し、自分自身も弁当を食い始めたのですが、この〝ランチタイム〟は、『関が原の戦い』が終了するまで、4時間あまりも続けられ、世間では</p><p></p><p>〝宰相殿の空弁当〟</p><p></p><p>と言われています。</p><p></p><p></p>]]></description>
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            <pubDate>Fri, 27 Mar 2009 16:54:00 +0900</pubDate>
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            <title>《関が原》　裏切り</title>
            <description><![CDATA[<p>家康おやぢには、小早川秀秋の考えている事を、手に取るように理解していたのです。元々どちらか勝つ方に味方しようと考えていた事を見透かし、どちらが勝つか判らなくなった時点で、秀秋は一人混乱しているだろうと見抜いていました。</p><p></p><p>そんな小心者で思慮の足りないヤツに言う事を聞かせる方法として、家康がとった手段は〝恫喝〟でした。</p><p></p><p>家康の命を受けた徳川家の鉄砲頭・布施孫兵衛（ふせ　まごべえ）率いる鉄砲隊は、密かに松尾山を登って、秀秋の本陣に忍び寄り、鉄砲を撃ち掛けました。</p><p></p><p>もちろん〝誰かに当てる〟気はなく、鉄砲の轟音と、鉄砲隊が背中に指している〝徳川家の指物〟を見せる事で、</p><p></p><p>「金吾！　裏切るならサッサと裏切れ！　ヾ(｀皿´)９（ｂｙ　家康）」</p><p></p><p>という家康の意思を示したわけです。</p><p></p>]]></description>
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            <pubDate>Fri, 27 Mar 2009 16:55:00 +0900</pubDate>
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            <title>《関が原》　西軍崩壊</title>
            <description><![CDATA[<p>「やはり裏切ったか！　(｀◇´)９」</p><p></p><p>松尾山を駆け下りて、西軍に向かってくる小早川秀秋の軍勢を見て、大谷吉継は叫びました。秀秋のセコイ性格を見抜いていたのは家康だけではなかったのです。</p><p></p><p>吉継は秀秋が裏切る事を予測して、松尾山麓に6000人ほどの兵士を〝対秀秋部隊〟として備えていました。</p><p></p><p>「裏切り者、金吾を殺れ！　ヽ(｀皿´)ノ」</p><p></p><p>と吉継は命令しましたが、その時、脇坂安治（わきざか　やすはる）、朽木元綱（くつき　もとつな）、小川祐忠（おがわ　すけただ）、赤座直保（あかざ　なおやす）といった、これまで吉継の指揮で動いていた大名が秀秋に便乗して裏切り、西軍を攻撃し始めたのです。</p><p></p><p></p>]]></description>
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            <pubDate>Fri, 27 Mar 2009 16:56:00 +0900</pubDate>
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            <title>《関が原》　決着！</title>
            <description><![CDATA[<p>東軍の攻撃が、明らかに西軍を圧倒し始めたのを確認して、家康おやぢは徳川の直近部隊にも総攻撃を命じました。</p><p></p><p>関が原で終始西軍の主力となって戦ってきた宇喜多秀家軍にも、今まで以上に東軍の兵士たちが押し寄せてきます。そんな激戦の中、秀家は部下から小早川秀秋の裏切りと大谷吉継の死を聞かされました。</p><p></p><p>「何ぃ？！　金吾め！　許さん！　(￣皿￣)９」</p><p></p><p>秀家も実は〝おぼっちゃん大名〟で、家康や吉継のように秀秋の性根を見抜いてはいなかったのです。それどころか、彼は秀秋の率いていた1万2千という戦力を信頼しきっており、部下からの報告を聞いた秀家は完全にブチ切れ、自ら秀秋の部隊に向かって斬り掛かって行こうとしたのです。</p><p></p><p>一軍の指揮官が自ら単騎で攻撃を仕掛けるなどというのは、滅多にある事ではなく、そんな無茶をしたのは上杉謙信（うえすぎ　けんしん）くらいのものです。部下たちは慌てて秀家を抑えました。</p><p></p><p>そうこうしている間にも東軍の攻撃は一層激しくなり、宇喜多軍も事実上崩壊し、秀家は部下の手によって無理やり連れられ、戦場を脱出します。</p><p></p><p></p>]]></description>
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            <pubDate>Fri, 27 Mar 2009 16:56:00 +0900</pubDate>
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            <title>《関が原》　孤立した島津隊</title>
            <description><![CDATA[<p>さて、小早川秀秋の裏切りをきっかけに形勢が決まり、『関が原の戦い』は東軍の大勝利という形で終ろうとしていました。</p><p></p><p>戦場を駆け巡っているのは逃げる西軍兵と、それを追う東軍の兵士で溢れていましたが、そんな〝残党狩り〟も落ち着き始めると、東軍兵士たちは、戦場に〝妙な軍団〟が居る事に気づきます。</p><p></p><p>位置的には石田三成が本陣にしていた笹尾山の付近で、戦闘態勢を整えたまま、降伏するわけでもなく、総攻撃を仕掛けてくるわけでもありません。この部隊は島津義弘の率いる薩摩兵たちでした。</p><p></p><p>前述の様に関が原の前哨戦において、前線に置き去りされそうになったり、夜襲の提案を即時に却下されたりして、義弘はすっかり、三成の指揮で戦う事がイヤになっていました。</p><p></p><p>ですから、実は『関が原の戦い』では島津隊は</p><p></p><p>「この戦は、我々のやりたいようにやらせてもらう　(￣^￣)」</p><p></p><p>と、三成の出陣要請も無視して、一切戦闘に参加していなかったのです。</p><p></p><p></p>]]></description>
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            <pubDate>Fri, 27 Mar 2009 16:57:00 +0900</pubDate>
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            <title>《関が原》　敵中突破！</title>
            <description><![CDATA[<p>秀吉が存命だった頃に行われた朝鮮遠征の際、島津義弘の率いる島津隊はわずか8000人での篭城作戦をした際、攻めて来る明国の兵20万人を相手に、これを見事撃破して、明・朝鮮国からは「石曼子（シーマンズ）」と呼ばれ、恐れられていたのです。</p><p></p><p>そんな逸話を知る東軍兵士たちは、戦闘態勢をとる島津隊に対して、うかつに仕掛けられず、西軍の残党狩りも終わりに近づいた関が原は、ヘンな緊張が生まれていました。</p><p></p><p>もはや、ヘタな抵抗は無意味だと確信している義弘ですが、実は</p><p></p><p>「退却したくても、こんな土地来た事ないから、〝帰り道〟が解らない…(-_-;)」</p><p></p><p>という事情がありました。義弘をはじめここに集っている島津兵の多くは地元の薩摩と大阪の行き来はしていても、大阪より東の東海地方の地理には全然疎かったのです。</p><p></p><p>ですから義弘は、全員で散り散りになって山に逃げ込んでも、残党狩りに遭ってヘタすりゃ全滅するのがオチであり、少しでも多くの仲間が薩摩に生還できる方法を考えていました。</p><p></p><p></p>]]></description>
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            <pubDate>Fri, 27 Mar 2009 16:57:00 +0900</pubDate>
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            <title>島津家の場合</title>
            <description><![CDATA[<p>「進めぇ～～！！　ヽ(｀皿´)ﾉ」</p><p></p><p>という島津義弘の掛け声と共に、〝日本最強〟と言われる島津兵の部隊は家康おやぢの本陣に向けて突進を始めました。</p><p></p><p>「今頃、特攻かよ？　(￣□￣;)!!」</p><p></p><p>迫り来る島津隊を見て、一瞬家康はビビりましたが、島津隊は家康本陣の前まで来ると、突如進路を南に変え、そのまま本陣を掠めるように走り去っていきます。</p><p></p><p>まさか帰り道が解らないから、正面に退却したとは思わない家康は、義弘におちょくられたと思って激怒し、</p><p></p><p>「義弘を生かして帰すな！　ヽ(｀Д´)ﾉ 」</p><p></p><p>と東軍大名たちに追撃を命じました。</p><p></p><p>戦闘が終結し、〝まったりモード〟に入りかけていた東軍大名たちは、突如下った家康からの命令に、慌てて逃げる島津隊を追いかけます。</p><p></p><p></p>]]></description>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">060　脱出</category>
            
            
            <pubDate>Fri, 27 Mar 2009 16:58:00 +0900</pubDate>
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        <item>
            <title>毛利・長曽我部の場合</title>
            <description><![CDATA[<p>関が原の平野の中には、すでに西軍兵の姿はなく、家康の命令で東軍兵が島津隊の追撃を始めた頃、南宮山に陣取って〝空弁当〟を食っていた毛利秀元は愕然とします。</p><p></p><p>気づいてみれば、西軍はボロ負けで、今更攻め込んだ所で逆に返り討ち遭ってボコボコにされるのが関の山です。</p><p></p><p>一説には、秀元はこの時初めて吉川広家の裏切りに気づいたと言われていますが、本当の所はよくわかりません。しかも、戦場ではそろそろ、手柄を立てそこねた東軍の連中が、せめて残党狩りで点数を稼ごうと、こちらに向かって来ていました。</p><p></p><p>もはや、『関が原の戦い』の決着はつき、西軍に加担した大名は、すべて家康おやぢから〝戦犯〟として裁かれる事は間違いありません。</p><p></p><p>不幸中の幸い…というか、毛利軍は東軍に対して、火縄銃の一発、弓矢の一本も放っていません。それを言い訳に毛利家への処分を軽くしてもらうしか手はないわけです。</p><p></p><p>そんな〝戦後処理〟に頭を悩ませながら、秀元は広家と共に戦場を離脱しました。</p><p></p><p>一方、西軍のプロデューサーの一人である安国寺恵瓊は、家康から〝名指し〟で捕縛命令が出されており、秀元たちと行動を共にするわけにもいかず、伊勢に逃げたのですが、後に京都に潜伏中のところを東軍方に確保されます。</p><p></p>]]></description>
            <link>http://hoans.jp/jp-tentijin/141_1.html</link>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">060　脱出</category>
            
            
            <pubDate>Fri, 27 Mar 2009 16:59:00 +0900</pubDate>
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        <item>
            <title>石田三成の場合</title>
            <description><![CDATA[<p>石田三成は、家康おやぢとの再戦をする為に単身、関が原を脱出します。豊臣政権を守る為には、家康は絶対に倒さなければならない相手であり、三成は</p><p></p><p>〝勝つまで、何度でも戦っちゃる！　(￣皿￣)〟</p><p></p><p>と決心しているのです。</p><p></p><p>三成の脱出ルートは、関が原の北側にそびえる伊吹山の東側を抜けて北上し、ぐるりと回って琵琶湖の北側に出てから、京都辺りに潜伏する予定だったらしいのですが、前述のように決戦前日に降った雨で腹を冷やしてしまった三成は、合戦中もひどい腹痛と下痢に悩まされており、脱出の際も途中で体力を使い果たしてしまいました。</p><p></p><p>三成にとってラッキーだったのは、この付近が自分の生まれ故郷である近江に近く、土地勘とコネがあった事でしょう。</p><p></p><p>フラフラになりつつも、三成は古橋村（現在の滋賀県伊香郡）まで逃げ延び、そこで体力を回復させる事にしました。</p><p></p><p>家康にとっても、三成は絶対に見つけて殺してしまわなければならない相手です。</p><p></p><p></p>]]></description>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">060　脱出</category>
            
            
            <pubDate>Fri, 27 Mar 2009 16:59:00 +0900</pubDate>
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            <title>三成の最期</title>
            <description><![CDATA[<p>石田三成を匿っていた古橋村の農民はそんなお触れが出ても、三成を捜索隊に売り渡すようなマネはしませんでしたが、三成自身が、村に迷惑が掛かる事を嫌い、農民に通報させて、捜索隊に捕縛されました。</p><p></p><p>三成は他にほ捕縛された安国寺恵瓊と共に、大阪や堺などを引き回しされた後に、京都の六条河原で斬首の刑に処され、その首は同じく京都の三条河原に晒されたそうです。</p><p></p><p>そんな三成の有名なエピソードとして、斬首されるために刑場へ向かう三成が、</p><p></p><p>「喉が渇いた。白湯をくれ」</p><p></p><p>と護送役の組頭に言うと、組頭はいちいち白湯を用意するのが面倒くさくて、たまたま持っていた干し柿を差し出しました。</p><p></p><p></p>]]></description>
            <link>http://hoans.jp/jp-tentijin/139_1.html</link>
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            <pubDate>Fri, 27 Mar 2009 17:00:00 +0900</pubDate>
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            <title>毛利の場合</title>
            <description><![CDATA[<p>『関が原の戦い』で大勝利を収めた家康おやぢは、その後石田三成の居城であった佐和山城を攻め落として、石田一族をほぼ全滅させたあと、大阪城で秀頼の傍を離れずに守っていた〝西軍総大将〟毛利輝元を大阪城から追放しました。</p><p></p><p>そして家康は</p><p></p><p>〝豊臣家を狙う謀反者を一掃した功労者〟</p><p></p><p>として、豊臣政権下で絶対の権力を握り、東軍で武功のあった大名に対する恩賞功労や、西軍大名に対する処罰を、豊臣家に相談することなく独断で決めていきました。</p><p></p><p>それらの詳細を説明していったら、また長くなりますので、敗れた西軍大名の主だったメンバーの戦後処理を紹介しましょう。</p><p></p><p>毛利家の戦後処理の交渉は、家康と内通した吉川広家が行ったと言われています。毛利家の外交役だった安国寺恵瓊はすでに、三成と共に処刑されてしまいましたので、当然と言えば当然でしょう。</p><p></p><p>広家に面会した家康は、最初に関が原での広家の行動によって、東軍が勝利を掴めた事に例を言い、広家に褒美として</p><p></p><p>「長門と周防（現在の山口県）の2ヶ国36万石を与えちゃうぞ　（　´∀｀）ｂ」</p><p></p><p>と気前のいい話をしました。</p><p></p><p>毛利家の参謀にすぎない広家にとって予想外の大きな恩賞に、広家は大喜びしましたが、次に家康が放った</p><p></p><p>「そのかわり、毛利家は断絶！　当主の輝元と息子・秀元は切腹じゃ！　ヽ(｀皿´)ﾉ 」</p><p></p><p>というセリフに真っ青になります。</p><p></p>]]></description>
            <link>http://hoans.jp/jp-tentijin/138_1.html</link>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">070　敗戦処理</category>
            
            
            <pubDate>Fri, 27 Mar 2009 17:01:00 +0900</pubDate>
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            <title>長曽我部の場合</title>
            <description><![CDATA[<p>『関が原の戦い』に参加したものの、決戦には一切参加出来ず、サッサと逃亡した長宗我部盛親ですが、その盛親に下した家康おやぢの処分は</p><p></p><p>「土佐20万石は没収！　領主・盛親は国外追放！　(｀皿´)ﾉ 」</p><p></p><p>というメチャメチャ厳しいものでした。</p><p></p><p>まぁ、盛親の首が繋がっただけでもラッキーといえばラッキーなのですが、おそらく長宗我部家には、毛利家の吉川広家のような〝交渉上手〟がいなかったからではないかと思われます。</p><p></p><p>そして、この没収された土佐一国をそっくりそのまま、恩賞として受け取ったのは、掛川6万石だった東軍大名山内一豊でした。</p><p></p><p>この一豊、実は関が原の決戦では東軍の殿に布陣しており、大した武功も上げていません。</p><p></p><p>そんな一豊が土佐一国をそっくりもらえたのは、</p><p></p><p>〝小山評定での発言〟</p><p></p><p>だったのです。小山評定で会津討伐について来た大名たちを全員自分の家臣にしてしまおうと、〝やらせ〟までしたのは前述の通りですが、一豊はそんな〝やらせ演出〟には参加していませんでした。</p><p></p><p></p>]]></description>
            <link>http://hoans.jp/jp-tentijin/137_1.html</link>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">070　敗戦処理</category>
            
            
            <pubDate>Fri, 27 Mar 2009 17:02:00 +0900</pubDate>
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            <title>島津の場合</title>
            <description><![CDATA[<p>1600人の部隊が70人を切るまで戦い続け、〝日本最強の軍団〟という印象を家康おやぢや東軍大名に与えて逃走した島津家の戦後処理は、</p><p></p><p>〝領地は安堵　(-,―∂)ﾎﾟﾘﾎﾟﾘ〟</p><p></p><p>という処理でした。西軍に属して『関が原の戦い』を戦った上で、領土を全く削られなかったのは島津家のみです。</p><p></p><p>ただ島津家にしてみれば、この処理もそう簡単に勝ち取れたものではありませんでした。</p><p></p><p>当初家康は、島津家も取り潰す気満々でしたが、島津家からの使者の言い分は、</p><p></p><p>「今回の戦は、ふたり居る当主のうち、島津義弘が勝手にやった事でござる　義弘はこの責任を取って当主を退き、謹慎の日々を送っておりますので、それで勘弁してちょ　m（_ _）m」</p><p></p><p>というわけです。</p><p></p><p>島津家は前述したように、特殊な理由で〝二人当主体制〟で運営されており、今回の合戦では地元薩摩からは〝正式な派兵〟は一切していません。</p><p></p><p>その特殊な事情を利用して、今回の戦で家康に歯向かう気はなかった、という理論で押し通したのです。</p><p></p><p>当然、そんな理由で家康は納得せず、〝島津征伐〟の計画も持ち上がりましたが、今回の合戦で大名はすっかり経済的に疲弊しており、遥か九州の薩摩まで遠征する余裕はすでなかったと言われています。</p><p></p><p></p>]]></description>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">070　敗戦処理</category>
            
            
            <pubDate>Fri, 27 Mar 2009 17:03:00 +0900</pubDate>
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            <title>黒田家の関が原</title>
            <description><![CDATA[<p>小山評定で〝やらせ演出〟を行い、多数の西軍大名を寝返らせ、さらに関が原の戦場では多くの武功を立てて、家康おやぢに誉められまくり、第一の功労者として筑前名島（現在の福岡）52万石の大領を貰った黒田長政が、有頂天になって父・如水の居る九州に帰ってきました。</p><p></p><p>長政を迎える如水のご機嫌は、相当悪かったのですが、長政はそれに気づかず、関が原での自慢話を散々話し、最後には</p><p></p><p>「父上、内府（家康の呼称）殿は拙者の手を取って、〝此度の戦は貴殿の働きがあったからこそ勝利できた！〟と感謝してくれました　(･∀･)」</p><p></p><p>と無邪気に凱旋報告をします。不機嫌にそれを聞いていた如水はふと、</p><p></p><p>「内府殿が握ったのは、そちのどちらの手だった？」</p><p></p><p>と尋ねました。長政は自分の記憶を辿るように、一瞬目を宙に浮かせながら考えると、</p><p></p><p>「右手でございました　(･∀･)ノ」</p><p></p><p>と答えます。すると如水は間髪を入れず、</p><p></p><p>「その時、そちの左手は何をしておった？！　ヾ(｀◇´)ノ」</p><p></p><p>と言い放ちました。</p><p></p><p>つまり、そこまで家康に接近していたのであれば、どうして家康が長政の手を取っている内に、空いている左手で短刀を抜き、家康をその場で刺し殺してしまわなかったのか？という意味です。</p><p></p>]]></description>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">070　敗戦処理</category>
            
            
            <pubDate>Fri, 27 Mar 2009 17:03:00 +0900</pubDate>
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            <title>幕末にも影響を与えた関が原</title>
            <description><![CDATA[<p>この後、家康おやぢは、豊臣家に無断で江戸幕府を開き、自らが征夷大将軍になる事で、豊臣家から政権を奪って最終的に豊臣家を滅ぼしていくわけですが、そこまで行くとそれは〝別の話〟になります。</p><p></p><p>ただ、家康が作った江戸幕府は260年間、大きな反乱もなく存続しますが、そんな幕府を倒したのは「薩・長・土」と言われる雄藩が主流になっていました。この「薩・長・土」というのはご存知の通り</p><p></p><p>〝薩摩藩と長州藩と土佐藩〟</p><p></p><p>であり、薩摩藩は「島津家」、長州藩は「毛利家」そして土佐藩は「山内家」となり、実は『関が原の戦い』で大きく運命の変わった大名や家来たちの末裔なのです。</p><p></p><p>土佐藩は関が原のお陰で豊かになった連中だと思いがちですが、実際幕末で活躍したのは、山内家の家来ではなく、山内家の侍たちに迫害された長宗我部家に仕えていた〝郷士〟たちでした。</p><p></p><p></p>]]></description>
            <link>http://hoans.jp/jp-tentijin/134_1.html</link>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">070　敗戦処理</category>
            
            
            <pubDate>Fri, 27 Mar 2009 17:04:00 +0900</pubDate>
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