細川ガラシャの悲劇
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次に石田三成がした事は、
†家康おやぢに従って会津に行軍中の東軍大名たちの家族を人質として確保する†
というものでした。大阪城の城下町には、有力大名の家族が暮らしていました。これは大名が地元で謀反を企てるのを防ぐ人質で、この習慣は後の徳川幕府にも引継がれていきます。
この時点で家康に付き従って会津に向かっている諸大名の家族を人質にしてしまえば、家康を孤立無援にする事が出来ますし、上手くいけば、その場で家康を討ち取る事も可能なのです。
しかし、戦国時代を生き抜いてきた大名たちは、こうした有事に備えて知恵の回る†留守居役†を家族と一緒に住まわせており、西軍の兵士たちによって封鎖されている城下町を様々な奇策使って脱出していきました。
ただ、丹波(現在の京都と兵庫の県境あたり)12万石の主である大名、細川忠興(ほそかわ ただおき)の正室・ガラシャ夫人は、城下町を脱出することなく、自害してしまったのです。
この細川ガラシャといわれる女性は、織田信長に対して謀反を企てた明智光秀(あけち みつひで)の娘で絶世の美女だったといわれています。
本来なら†謀反人の娘†などを嫁にしているのはマズイのですが、忠興はガラシャの美貌にベタ惚れで、離縁はしませんでした。
さらに秀吉が禁じたキリスト教にガラシャがハマって、洗礼まで受けてキリシタンになってしまっても、ガラシャを罰する事はなかったのです。
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