島津の場合
1600人の部隊が70人を切るまで戦い続け、〝日本最強の軍団〟という印象を家康おやぢや東軍大名に与えて逃走した島津家の戦後処理は、
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〝領地は安堵 (-,―∂)ポリポリ〟
という処理でした。西軍に属して『関が原の戦い』を戦った上で、領土を全く削られなかったのは島津家のみです。
ただ島津家にしてみれば、この処理もそう簡単に勝ち取れたものではありませんでした。
当初家康は、島津家も取り潰す気満々でしたが、島津家からの使者の言い分は、
「今回の戦は、ふたり居る当主のうち、島津義弘が勝手にやった事でござる 義弘はこの責任を取って当主を退き、謹慎の日々を送っておりますので、それで勘弁してちょ m(_ _)m」
というわけです。
島津家は前述したように、特殊な理由で〝二人当主体制〟で運営されており、今回の合戦では地元薩摩からは〝正式な派兵〟は一切していません。
その特殊な事情を利用して、今回の戦で家康に歯向かう気はなかった、という理論で押し通したのです。
当然、そんな理由で家康は納得せず、〝島津征伐〟の計画も持ち上がりましたが、今回の合戦で大名はすっかり経済的に疲弊しており、遥か九州の薩摩まで遠征する余裕はすでなかったと言われています。
さらにそんな状態で無理して薩摩まで遠征したところで、待ち受けるのは今回の合戦に参加していないため、全く無傷な〝日本最強〟の島津兵1万人が待ち受けているという事を考えれば、勝ち目はなく、使者の持ってきた詫び状一本で
〝お咎め無し ( ̄Д ̄;)〟
と許してやるしか手は無かったわけです。
この〝不十分な戦後処理〟が、後に開かれる江戸幕府にとって
〝仮想的は薩摩〟
という方針になるのでした。
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